レイ・ダリオ氏は、財政悪化や富・所得の格差に対処するための、富裕税等による富の移転についてコメントしている。
ダリオ氏は、富裕税が単に移転支出(財・サービス等の反対給付なしに一方的に富を移動させること)に使われれば、将来果実を生むはずの投資が減り、将来果実を生まない消費が増えかねないとの心配を述べた。
同氏は、これが投資の減少やバブルの崩壊を招きかねないとして、同時に人々や社会全体の生産性上昇を実現しなければならないと話している。
そこで重要となる問いは、生産性上昇とそのための適切な資源配分を誰が実現できるのか、という点だ。
そして、誰がそれをやり遂げることができるのかを考えないといけない。・・・
通常は、民間の、資本家が所有する企業の方が政府よりもうまくやる。・・・
最高の生産性を望む人たちは政府組織には行かない傾向がある。
しかも、政府は分配をうまく行わないものだ。
現場におらず、直接の接触もなく、現場がどうなっているか知らない。
1980年代後半の日本では実にさかんに国内への投資が行われ、結果、多くの人々が一時とても豊かになった。
ところが、バブルが崩壊すると企業・金融機関は過去の投融資について真摯に反省し、あるいは反省せざるをえない状況に陥った。
財政出動によるバランスシート修復まで時間がかかったこともあり、企業には《あつものに懲りてなますを吹く》習性が染みついた。
要は、特に国内に投資しなくなったのだ。
国内投資が行われなかったのも問題だが、同様に問題になってきたのが、国内投資の選手交代だ。
企業が慎重になり国内投資が不足したため、あるいは日米構造協議の影響もあり、投資の主役が民間から政府に移るような意識の変化があった。
しかし、多くの人が知っているように、政治家や役人は寛大な消費者とはなりえても、ほとんどの場合で優れた投資家にはならない。
政府の債務対GDP比率がそれを如実に物語っている。
ところが、日本人は、少し経済が風邪を引くだけでも、すぐさま財政による対応を求めるようになった。
アベノミクスでは《官民ファンド》と称するものが設置されたが、事実上国営と呼ぶべき運用にとどまり、案の定、実質的な破綻が露呈したものも見られる。
そして、今政府は、2040年度までに官民で戦略17分野、総額370兆円を投資する成長戦略を決定し、来年度予算では「新たな投資枠」に要求の上限を設けないこととした。
《今回は違う》と信じたいが、既視感は拭えない。
日本が後進国だった時代、政府に投資を任せることには合理性があった。
先進国に追いつくために絹や鉄に投資をすればよく、適切な対象がある程度自明であったからだ。
先進国になれば物まねでは通用しなくなり、誰も教えてくれなくなる。
投資対象は民間の経済主体が自ら選択しなければならない。
ところが、日本は先進国になった後、投資の役割分担を後進国の時代に先祖返りさせたように見える。
国全体としての投資の失敗は、最終的には財政悪化を招き、通貨の価値を毀損する。
これでは日本人の購買力が先祖返りしても不思議はない。
