ハワード・マークス氏は、このMemoの書かれた2010年から2年前(つまりリーマン危機直後)まで、金に対して「信じていなかった」「無関心だった」と書いている。
ただし、それまで長く信じられてきたのだから、信仰がすぐに止まる可能性は低く、分散のツールとしては有効だろうと結論している。
その上で、当時の価格(1,400ドル前後)がエントリーに適しているかどうかには疑問符をつけている。
今の金価格は当時の2倍半を超えているのだから、世の中とはわからないものだ。
マークス氏の金に対する議論はとてもオーソドックスだったし、多くの観点が今も当てはまる。
ところが、このMemoは本当のところ金についてのMemoではなかったようだ。
金が本質的価値を持たないと文句をつけるなら、同じ心配から、おそらくドル(ユーロ、ポンド、円)にも疑問を呈すべきだろう。
上述のとおり金に限界があるとするなら、通貨についてどう議論すべきだろう?
法定通貨もまた(誰かが交換してくれない限り)キャッシュフローを生まず、それ自体に本質的価値があるとは言い難い。
法定通貨の価値の大前提は、他の人たちがそれを受け取ってくれること、つまりドルや円の信者であることにある。
金価格上昇は、金という神をいただく宗教が繁栄したというより、むしろ法定通貨という神をいただく宗教が信者離れを起こす時に起きている。
さて冒頭で、2010年のMemoの議論が最近の金にかかわる議論とよく似ていると指摘した。
2つの違いがあり、その1つが不信仰の原因(金融政策か財政政策か)であると書いた。
では、もう1つの違いは何だろう。
今日ドルは問題を抱えており、ドルの準備通貨としての評価は低下している。
近年ユーロやポンドと比べて低下しなかったとすれば、実際2007年以降ドルはこれらに対し上昇しているが、その主因はユーロとポンドがより大きな問題を抱えているためだ。
円だけがドルに対して強くなっており、(日本の巨額の債務とはうらはらに)その理由は日本の保守主義・堅実さにある。
東日本大地震の直前、アベノミクスと異次元緩和がスタートする2年前、円は強かった。
今では立派に他の先進国に追いついた。
この15年で何が起こったのだろう。