問題なのは、こうした政策に対する評価であろう。
これら政策は国家の窮状を救うためになされたものであり、否定されるものではなく、むしろ評価されるべきだろう。
しかし、原因まで遡って、こうならないですむのなら、それに越したことはなかったのだ。
また、国家が救われるなら、その負担を負う人たちも無数に存在した。
決して喜んだり、喝采したりすべき話ではない。
ダリオ氏はその点を淡々と的確に暗示している。
ニクソン・ショックでの株価上昇をこう回顧している。
私は驚いた。
それまで通貨切り下げを経験したことがなかったからだ。
ダリオ氏は、兌換停止後の株価上昇を株式の価値の上昇ではなく、逆にドルの減価だと解説しているのだ。
貨幣の価値が短期的に粗い動きをするという表現が妥当かどうかはわからないが、長い目で見れば、妥当な見方なのだろう。
長い目でみれば、大きく変化したのは株の価値というより貨幣の価値と見る方が、他の価格との整合性は高いのだろうから。
こうした考え方は、投資家にとって大きな悩みをもたらす。
仮にある期間をとって見て株価が大きく上昇したとして、これを喜ぶべきなのか?
株の価値が上がったのではなく、貨幣の価値が下がっただけではないか?
近年の日本のインフレや円安はこうした疑問を裏付けているようにも見える。
この意味で、前回の大きな危機であるリーマン危機はデフレ的な危機であった。
株価は下がり、物価にもデフレのリスクが襲い掛かった。
しかし、これはある意味わかりやすい危機だった。
いわゆる非伝統的金融政策が採用される前であり、財政規律が大きく緩む前であって、貨幣の価値の低下を考慮する必要はなかった。
まだ《Cash is king.》の時代だったのだ。
今後起きる市場低迷はデフレ的ではないかもしれない。
実際、1970年代のニフティフィフティ相場後の低迷では、名目株価はあまり下がらず、実質株価が大きく下落した。
そうしたインフレ的な資産価値の低迷では、Cashや債券があまり役に立たなくなってしまう。
投資家は低迷を予想しても、Cashや債券に逃げる意味がなくなってしまう。
今、市場には奇妙に楽観が戻ってきている。
この先再び最高値更新を目指すのかもしれない。
でも、その時、投資家は喜んでいいのか、脅威を感じるべきなのか?
デフレが脅威だった時代はわかりやすくてよかった、などということにならないとよいが・・・