浜田宏一教授の注文の多い財政政策

返済のめどなき先食い

こうした主張を聞いた時、正統的な投資理論を学んだ者ならば必ず思い出す言葉がある。
《世の中にはフリー・ランチはない。》
金融政策や財政政策で将来の効用を先食いした人たちは、返済期が来た時どうするつもりなのだろう。
彼らの答はいつも同じだ。
《いやいや、返済の必要はない。》
すべてを返済する必要はあるまいが、相当な返済が必要というのが健全な見方ではないか。
しかし、彼らは脅迫に似たフレーズを吐き、議論を終わらせようとする。
「再び失われた20年に戻ってしまう。」
そして、この論争は常に宗教論争になる。
かたや《不可知のリスクがある》と言い、かたや《今が行動すべき時でリスクは小さい》と言う。
一言で言えば、この分野の新興宗教の信者の皆さんは、出口をきちんと語れない。


もう少し言えば、金融・財政政策のハト派は、しきりに統合政府という概念を持ち出す。
日銀が伸びきってしまったたので、次はもう一度政府というわけだ。
しかし、彼らの考えはたかだか統合政府までだ。
なぜか、浜田教授も最も大切と認める国民生活まで連結しようとはしない。

なぜか。
統合政府を救うために必要なインフレの負担は国民に寄せられるからだ。
仮に彼らのプランが統合政府を救ったとしても、その本質は、コストを国民にしわ寄せするにすぎない。

むろん、統合政府の苦境を救うべきは国民だ。
しかし、もしもそれが必要で、それを実行するならば、正々堂々明示して行うべきなのだ。

浜田教授は経済理論を適切に応用する人物だ。
しかし、だからと言って、市井の民や政治家がその言をそのまま受け取っていいわけではない。
教授の議論は理論としては正しいが、しょせんは多くの前提条件が付された机上の空論の側面が強いからだ。


This time is different?

日本は1990年前後のバブル崩壊以降、それなりに金融緩和も財政出動もやってきた。
もちろん、メリハリが足りなかった面があったとの議論はありうるが、それでも、今では世界一強烈な金融緩和を行い、(ギリシャに回復基調が見えてきたと考えれば)先進国一悪化した財政を抱える国でもある。
これまでの30年間、入れ替わり立ち代わり
《自分たちが自分たちのやり方でやればきっと問題は解決する》
と言い張る(いわゆる上げ潮派の)人たちが出てきて、その結果がこの体たらくだ。
「This time is different.」と言いたいなら、相応の根拠が必要だろう。

浜田教授はコラムの最後の1段を教育投資に費やしている。
全文を見る限り、これが教授の根拠だろうか。
人的資本の向上が重要・喫緊の課題であることは言うまでもないが、こんな言い古された話で問題は解決するのだろうか。
教授は「従来の日本の教育ではAIに淘汰されやすい人材しか育たない」と心配する。
しかし、そもそも心配すべきは、AIが普及していった時に労働者がどれほど必要なのかであろう。
イス取りゲームのイスの数の制約から、能力はあっても雇用を得られない人が出てくるだろう。
それでも、社会がそこそこ幸福になれるような社会の設計なのではないか。

切り取られる経済理論

拡張的金融政策、拡張的財政政策は果たして元が取れるのか。
仮に、そこに一定の確信が持てるなら、ほとんどの人はGoを出すはずだ。
しかし、元が取れるか否かの前提となる出口の議論さえ十分になされないから、少なからぬ人がNoと唱えている。

あるいはそこをクリアしたとしても、理論どおりに正しい運用がなされるのか。
財政支出は本当に元を取れるものに限られるのか。
誰かが忖度して実力者の関係先に支出してしまわないか。
「国民生活の向上に寄与する」という当たり前の条件さえ徹底が難しいのが世の常だ。
だからこそリバタリアンのような極論がなくならない。

アベノミクス開始時、その理論的支柱とされた浜田教授が今「物価目標にこだわる必要はまったくない」と言うが、内閣は明らかに異なるニュアンスのメッセージを出し続けている。
《量的緩和は心配いらない》、《財政は心配いらない》という教授の言葉は、その明示的・暗示的な前提条件まで正しく適用されていくだろうか。
仮にそうなると担保されないなら、しょせんは机上の空論と言わざるをえないだろう。


ページ: (1) (2)

 - 国内経済, 政治