物価目標を堅持せよ:渡辺努教授

東京大学の渡辺努教授が、物価目標を堅持すべきと主張している。
アラン・グリーンスパン元FRB議長の言を引き、デフレが企業の活力を奪うと主張している。


最近は、2%の物価目標達成が難しい状況にあるため、やめるべきではないかといった議論もある。
更に、金融緩和を続けていることで、地銀をはじめとする金融機関の業績が非常に厳しい状態になっており、その副作用を指摘する声もある。
しかしながら、そういった議論は、かつてグリーンスパンが指摘したことが今の日本に起きているという事実を無視したものではないかと思っている。

(出典: 証券アナリストジャーナル2019年8月号)

渡辺教授が証券アナリスト協会主催の講演会で、現状の物価目標を疑問視する意見に対して反対意見を述べた。
教授のいう「グリーンスパンが指摘したこと」とは何だったか。
「無視」する以前に、主たるテーマとして提示されてきたとは言い難く、多くの人が意識さえしていないはずだ。
6月に公表された日銀の論文では、インフレのコスト・ベネフィットに影響を及ぼす4つの代表的要因として(1)価格の硬直性、(2)貨幣保有の機会費用、(3)名目賃金の下方硬直性、(4)ゼロ金利制約 を挙げていたが、ここにグリーンスパンが指摘した要因は(少なくとも直接的には)入っていない。

渡辺教授はグリーンスパン議長がPricing powerという言葉を用いてデフレ退治の重要性を語った言葉を紹介している。

「デフレが定着してしまう、あるいは、屈折需要曲線のような状態になってしまうと、価格を据え置くようになってしまう。
そうなると、企業はPricing powerを失ってしまう。
そこで問題になるのは、企業の活力がなくなってしまうことだ」

つまり、デフレが企業の活力を奪うというのだ。
どのようなメカニズムで企業の活力を奪うのか。
渡辺教授は、企業が新商品開発をする場合の例で説明している。

「Pricing powerを失っていると、せっかく良い商品を作ったとしても価格を高めに設定することができなくなってしまう。
もし、投資資金を回収できないのであれば、ばかばかしくて商品開発などしなくなってしまうだろう。」

このたとえ話の有効性については評価を留保しておこう。
気になる点が3点ある。

まずは名目と実質で風景が異なる点だ。
投資回収の視点について、名目ベースではこのロジックは正しいが、実質ベースで正しいかはっきりしない。
デフレ、それにともなうマイナス金利を想定する以上、実質ベースの議論も必要になってくるはずだ。
日本の実質賃金が、皮肉なことに、デフレ期にプラスになる傾向だったことなど、こうした想定の世界は《アリスの不思議な国》なのだ。
(このことは、デフレと活力の因果関係の矢印がはっきりしないことにもつながる。)
ただし、名目ベースではこの議論は正しい。
私たち投資家は《デフレなら国債》という戦略をとってきたのだから。


2つ目は、Pricing powerの喪失について日本の社会がどう考えているかだ。
日本において寡占が存在し、業界のプレーヤーがPricing powerを有している代表的な産業が携帯電話キャリアだろう。
この業界に対して、政府は盛んに料金引き下げを促している。
もちろん様々な理由があってやっているのだろうが、とりあえずこれを日本社会の意思と受け取らざるを得ない。
これは決して金融政策の話ではないし、ここだけ見れば、社会の意思と物価目標が相反するようにも見えてしまう。
インフレを高めることが優先課題と考えるなら、主たる実行役はもはや日銀ではないのではないか。
逆に言えば、もう十分に低金利でマネタリー・ベースもあるのだから、他の手を考えるべき時期なのではないか。

最後に、Pricing powerを失わせている大きな要因の1つが、渡辺教授が必要と主張する物価目標を掲げる金融政策にあるのではないかとの見方が根強くある点だ。
2%という極めて実現の難しい物価目標があるがゆえに長く長く金融緩和が続き、赤字企業が生き残る。
ウーバーやリフトは長く黒字化できなくても営業が続き、ついには超大型上場を果たしている。
こうしたゾンビ企業が実体経済にデフレ圧力を及ぼしているのは明らかだし、同時に金融の不安定を大きくしている。
こうした企業はいわば、投資家の金で値下げをしているのであり、こんな愚かな構図を可能にしている主因が、物価目標によってドライブされる金融政策が生み出した利回りハンティングなのだ。
もちろん、ロジックはこんなに単純なものではないのだが、そうした伝達経路も存在することには注意が必要だ。

こうした当たり前のことを渡辺教授が気づいていないはずもない。
教授はこれらを理解した上で、それでも物価目標が必要といっているのだろう。

2000年初期頃の米国は、日本のようなデフレが起きるのではないかという懸念があり、グリーンスパンFRB議長が、それを回避するために金融緩和策を進めていった。
この金融緩和が住宅バブルを引き起こしたといわれている。

なんと皮肉なことではないか。
1990年代半ば以降グリーンスパン議長(当時)が実施した「保険的利下げ」は2000年のドットコム・バブルの一因となった。
バブルは崩壊し、これがデフレを生むのを恐れた同議長が金融緩和でそれを未然に防いだというのだ。
渡辺教授は「米国は、非常に早いタイミングで金融緩和をスタートさせたため、日本のようにデフレが定着しなかったといわれている」と解説するが、一方でサブプライム/リーマン危機を生んだ。
100年に一度と言われたこの危機は、より深刻なデフレ懸念を生み、非伝統的金融政策を伝統にしようとしている。

今、米国は、大統領が史上最高の好景気と自慢する中で「保険的利下げ」を始めた。
そして結局は、日本化に怯える毎日になった。
やはり世の中は拡張的な方にバイアスがかかるものらしい。
投資家は自身の価値観とは切り離して経済・市場を予測する姿勢を続けるべきだろう。


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