アスワス・ダモダラン ニューヨーク大学教授が、バリュー投資について大作のブログ記事を公表したが、その中に問題の本質を感じさせる段落があった。
私が受ける最も一般的な反発は、古い時代のバリュー投資家からのものだ。
バリュー投資は長期で勝利を収める唯一の約束された道であり、議論の余地はない、というものだ。
ダモダラン教授が自身のブログで、投資哲学の講義で受ける反論について語っている。
教授のバリュー嫌いは有名だ。
度々バリュー投資は終わったと発言し、世のバリュー投資家を困惑させてきた。
そのダモダラン教授が、3回に分けてバリュー投資に対する考えを総括している。
バリュー投資I: 栄光の日々
バリュー投資II: 失われた10年
バリュー投資III: 再生、転生、挽歌?
定義と歴史から始め、様々な観点を検証し、バリュー投資にダメを出し、有効性を取り戻すための道を提案している。
興味深いエピソードやウィットが散りばめられており、楽しめる読み物になっている。
ダモダラン教授は一生懸命論じているが、この問題の本質は何なのだろう。
それがこの段落に象徴的に示されているように感じられた。
投資哲学の領域でいえば、バリュー投資は他の投資哲学と比べて、その優位性を示す様々な研究に恵まれてきた。
バリュー投資家の物語、彼らが成功した銘柄に関し、いかにバリュー投資がうまくいくか数字によって示されてきた。
だから、多くの投資家が自身の投資哲学を尋ねられた時、バリュー投資家だと自認しても驚くにはあたらない。
それは単に成功した実績によるものだけでなく、知性・学識による裏打ちによるものなのだ。
筆者は自身をバリュー投資家だと自認しているが、ダモダラン教授の定義からすると必ずしもそうでないようだ。
なぜ自身をバリュー投資家と思うのか。
それは、ファクトと予想に基づき株価の高安を測ろうと努めているからだ。
言葉は悪いが、筆者からすると、グロース投資家のファクトへのウェイトは小さすぎ、彼らの言葉・考えは軽薄にしか感じられない。
(それは多分にその世界の表現法のノルムにすぎない。
内面では軽薄でない人もたくさんいるのだろう。
もちろん、内面も軽薄な人もいるのだろう。)
だから、グロース投資家にはなりたくないのかもしれない。
ダモダラン教授が「終わった」と言ったバリュー投資と、世の中でバリュー投資を自認する人たちの間には、大きな食い違いが存在するのかもしれない。